『あ……』
イルカは、心の中でそう呟いて、そっと周囲を探る。
だが、そこには誰の姿も無い。落胆して、息を吐いた。
『また逃げられたか…』
―――実は、この頃イルカは自分に向けられる、密やかな視線を感じるようになっていた。
それは、ほんの一瞬なので、最初は気のせいかとも思ったのだが…毎日のように感じるそれに、流石に気のせいではないと確信した。
だが、イルカは未だその視線の主の姿を確認していない。姿どころか、気配さえよくわからない。『それならば、やはり気の所為だ』と言われるかもしれないが…確かに視線の主はいる。
だが、それが誰からの者なのか、確信できないでいた。
『授業中は感じないんだよなぁ…大抵、放課後ってことは』
つまり、俺のクラスの子供ではないということだろうか?では、他のクラス…?
イルカはそう思案しながら首を捻る。
この視線を感じるようになったのは、ひと月ほど前からだ。木の葉学園に赴任してきてまだ、一ヵ月半。もちろん受け持ちクラスの子供達は顔も名前も覚えたが、他のクラスはもちろん、受け持ちの学年以外の子供は正直まだ顔も覚え切れていない…。
『それにしても、こまったな…』
この視線が、新しくきた教師を珍しがって眺めているだけのものなら、そのうち飽きるだろうから放って置けばいいし、『新しく来た先公が気にくわねぇ』との視線なら、熱血指導あるのみだ。
だが、この視線はそんな類のものではないと、常々恋愛関係に『鈍い』と言われているイルカでも、気がつき始めていた。
―――だって、感じる視線のなんと熱いことか。
そして、熱いだけではなく…切なく、甘い。
ひと月も姿を見せないし、アピールもないところを見ると…こちらに気がついて欲しくてやっているという訳ではないようだ。
それなのに、一瞬だけ強烈に現れては消えるそれは、たぶん。
抑えきれぬ想いを溢れさせる、熱視線―――
それに気がついてから、イルカはその視線が誰のものなのか気になって気になって仕方なくなった。
『情が深く、でも内気な女の子…なのかな?』
今フリーだし、これがちゃんとした成人女性ならば、喜んでお付き合いするところだが…
『さすがに、教え子…しかも、現役中学生はマズすぎるだろ』
しかも、俺にロリコンのケは一切ない!
そう拳を握って心の中で叫んでから、イルカはがっくりと肩を落とした。
『でも…この年齢の女の子って難しいんだよな、傷つけたくないし』
断るにしろ、慎重にしないとな…。子供の心に傷を残してはいかん!
…ああ、なにもこんなくたびれたおっさん(いや、俺はまだ二十台だし、おっさんではないけれど!でも、中学女子からみれば、多分おっさんの部類だろう?)なんかに想いを寄せなくても…。
溜息をついていると、後ろから声を掛けられた。
「どうしたの、イルカ先生…溜息なんてついちゃって」
「紅先生…いえ、授業の進め方でちょっと…」
「イルカ先生真面目だからねぇ…まだ、始まったばかりじゃない、肩の力抜きながら行きましょうよ?」
相談ならいつでも乗るわ、今度一緒に飲みましょう?
そう言ってウインクを残して去っていく魅惑的な後姿に、しばし見とれる。
『ああ、視線の主が紅先生だったらなぁ…』
あんな素敵な人なら、今頃天にも昇る心地だろう…って無理だよな、紅先生にはアスマ先生がいるし、俺なんかにあんな視線を寄越す訳がない。
―――そう思いつつ、再び溜息。
好意をもたれるのは悪い気がしないが、厄介そうな相手に、イルカは胃が痛くなる思いだった。
******
「え?なんていいました?」
「その…俺を見つめる視線を感じるんです」
その日、イルカは最近親しくなった同僚、はたけカカシ先生と居酒屋で酒を飲んでいた。
彼はイルカより少し年上なだけだが、イルカが担当する学年の学年主任である。
最初こそ、大きなマスクに眼帯と言う出で立ちに驚いたが、付き合ってみると話やすくいい人なのが分かった。
学年主任ということで、赴任してきたばかりのイルカに色々と親切に教えてくれ…飲みにも誘ってくれ・・・何度か一緒に酒を飲むうちに緊張も解け距離も縮まり、楽しく酒に酔えるような仲になったと思う。
今日も彼に誘われ居酒屋にきたのだが…彼の勧め上手もあり、大分酒が進んだ。
そして、程よく酔いが回った頃―――イルカはつい、カカシに『熱視線の主』の事をしゃべってしまった。
『思い込みですよ』とでも言われるかと思ったのだが、予想に反して彼は真剣な顔で聞き帰してくる。
「…それは、どんな?誰かわかりましたか?」
「いや、誰かはわかんないんですけどね、一瞬だし…ただ、ここ一ヶ月ほど、毎日のように感じるんですよね…その視線を」
確認しようと思うんですけど、なかなか見つけられなくて。
そう肩を竦めて言うと、カカシは肩をガックリと落として、大きく溜息を吐いた。
「カカシ先生?」
「スイマセン…それ、俺です」
「はぁ!?」
唖然と声を上げると、カカシは面目なさそうに頭を掻いた。
「俺たち、会って数日後に、俺から誘って飲みに行ったでしょ?」
「え、ええ…」
「その時俺、今まで経験無いくらい、すごく楽しくて…」
新しく来た先生と円滑に仕事を進められるように、親睦を深めようと酒の席に誘ってみたら、子供達の事以外にも話がはずんで、とても楽しかった。
悪友達のように性質の悪い悪戯を仕掛けてくることもないので、リラックスして酒の味を堪能できるし、真っ直ぐにこちらの目を見て話しをするイルカの態度は信頼ができ…会ったばかりなのに素直に会話を楽しむ事ができたのだが。
・・・その居心地の良さは、カカシにとって初めての感覚だった。
「あんまり楽しかったから、次の日も誘っちゃいましたよね?」
「ああ、そういやそうでしたね」
最初に誘われた時も驚いたが、イメージと違う気さくな態度で、楽しい時間が過ごせた。
『これから良い関係が築けるかもな…』とは思っていたが、次の日もまた誘われて、かなり驚いたのを覚えている。
「俺、独り身ですからね…夜はほぼ外食なんです。今まで一人で食べる方が気楽だと思ってたんですけど、あなたとの飯は楽しかったから、これからは時間が合えば誘ってみようと思って、次の日も誘ったんですけど…でも、流石に三日目は断られましたよね?」
「そうでしたねぇ…すみません。でも、流石に三日続きはね…俺も独り身だから外で食事する方が楽だし、楽しいんですが……金が持ちませんよ」
しがない平教師ですから、給料もたかが知れてるんです。そう言ってイルカは苦笑した。教師というのはカカシとて同じだが、噂で聞いたところによると・・・教師などしているが、彼は資産家の息子らしい。着る物ひとつ見ても、彼が金持ちなのはなんとなく分かっていた。
「アナタがそう言うから、『奢ります』って言ったけど、それも断られましたよね?」
「そりゃそうですよ。前の日だって奢ってもらいましたし…たまにならいざ知らず、毎日なんてダメですよ。それじゃあ楽しいはずの酒も楽しくなくなります。だって、それ目当てで誘いに乗ってるみたいじゃないですか」
「あの時もアナタ、そう言いました。だから、毎日誘うのは諦めたんですけど…。でも、アナタと食事する楽しさを覚えちゃったら、なんだか一人で食べるのが味気なくて。…それで、ついついアナタの姿を見かけると目で追うようになっちゃって」
「え?」
「姿を見るたび、『もう一週間過ぎたから誘っていいかな?』とか、『給料日前だから今日はダメだろうなぁ』とか、そんな事を考えながら、見つめていたんです」
度々見ていたら失礼かなとも思ってさりげなくを心がけてたんですが…気付かれてたのか。イルカ先生、感が鋭いですね?
カカシは悪戯を見つかった子供のようにうな垂れたか…イルカは怒るでもなく、ただ唖然とカカシを見つめていた。
『あの視線が、カカシ先生だって?』
彼が自分をそんなに食事に誘いたがっていたのにも驚いたが、あの視線がカカシ先生だなんて…
『違う』
アレがカカシ先生な訳がない。
イルカはすぐに首を横に振った。
「違いますよ、カカシ先生。カカシ先生も俺の事を見ていたというのは分かりましたが、アレは違います。別の人のものです」
「…なんでそう思うの?」
「何でって…」
だって…あの視線は、恋をする者の視線だ。
溢れ出るそれを隠し切れずに…少しだけ零れ落ちる、熱視線なのだ。そんな視線を、この人が俺に寄越す訳がない。
一見怪しい風体の彼だが、マスクを外した顔が驚くほどの美形だと知っていまだから、ますますそう思う。
『それに…まかり間違ってこの人が俺の事を好きだったとしても、あんな視線は寄越さないと思う』
どう考えても、彼とあの視線は結びつかない。
いつも飄々とした態度の彼。近頃は親しく付き合うようになって、心まで冷たい人ではないと分かったが…イルカから見ると、彼はいつもどこか余裕があり、クールな印象が強かった。
彼ほどの人なら恋愛だって余裕。あんな熱にうかされたような視線をすることなどありえない気がする。
とはいえ、『あの視線はオレに恋する視線ですから、アナタじゃありません』とは、流石に言えなくて…誤魔化した。
「…え〜と、上手く言えないんですけど、とにかく違う気がするんです」
「でも…俺、ここ一ヶ月そんな風にアナタを見てたけど、俺の他にアナタをこっそり見てる奴になんて、気がつかなかったですし……やっぱり、俺だと思うんですけど?」
「あはは、絶対違いますって!俺の勘を信じてください・・・アレはアナタじゃありません」
「そうですか?…でも、俺の他にアナタを見てた奴がいるとなると、それはそれで気になりますね……なんだか心配です」
ストーカーとかだったら、俺がなんとかしましょうか?
そう言うカカシに、イルカは慌てて首を横に振った。
「そんな嫌な感じのモノではないので、心配ないですよ!」
「そう?本当に?…遠慮しなくていいよ?」
納得できない様子の彼に、イルカは慌てて話題を変えた。
「大丈夫ですって!あ、そういえば…カカシ先生、一人飯が寂しいんですよね?なら、明日は俺んちでメシ食べませんか?」
「え?いいんですか?」
「ええ…二日続けて店で飲むのは金銭的に辛いんですが、家でいいなら……あ、その分たいした物は出ないですけどね?」
「そんなの全然いいですよ!んじゃ、俺も惣菜とかビールとか持っていきます」
「お、そりゃ助かりますね。んじゃ持ち寄って食べるって事で」
そう言って、その日は別れたのだが。
―――次の日、『あの視線の主』が本当にカカシであると思い知る。
「カ、カカシ先生、冗談は……」
自宅の居間で、壁際まで追い詰められたイルカは、冷汗を垂らしながらそう言った。
目の前にはカカシ、壁に押しつけた長い両腕で檻を作り、その中に囲ったイルカを見つめている。
「…冗談なんかじゃありませんよ。アナタが好きなんです」
でも、この想いを受け取ってもらえる自信が無くて、今まで見つめるだけでしたが……アナタを見つめる者が他にもいると分かった今、躊躇なんかしていられない。
「他の誰かになんて、渡したくないんです……お願いイルカ先生、俺のものになって?」
切なげにそう言ってこちらを見つめてくるカカシ。見つめ返すだけでこちらまで体が熱くなってくるような…熱に浮かされた、視線。
それはまさに―――熱視線。
ゴクリ…と、イルカは唾を飲み込む。
『視線の主はやっぱりアナタでした!俺を狙っている奴なんて他にいないですから、ちょっと落ち着いてください!!』
そう言おうと思うのに、蛇に睨まれた蛙のごとく言葉が喉の奥から出てこない。
言葉を出せない唇が、わななく。
そんなイルカの唇を、カカシはどこかうっとりとしたような、艶めいた視線で一瞥したあと、親指の腹でゆっくりと撫でた。
―――ぞくりと、イルカの背中に甘い痺れが走る。
『…っ』
全然『内気』なんかじゃなかった…それどころか、丸ごと食われそうな予感をひしひしと感じる。
『ああ、でも情が深そうなところは当たってたかも・・・(汗)』
彼が、こんな情熱的な人だなんて、思いもしなかった。
『教え子じゃなくて良かったけど、十分スキャンダラスな気が・・・』
同僚同士の恋愛はよくある話だろうけど、『同性の同僚』との恋愛はめったに無いだろうと思う。
他の同僚や、PTAには絶対に内緒にしておかないと・・・知れたら学校中、上を下への大騒ぎだろう。
そんな場面を想像し、冷や汗がたらりと滴り落ちる。
『それは、断固回避せねば!!・・・ああ、何故こんな事に。俺、小市民なんだよ・・・確かにそろそろ恋人が欲しいとは思っていたけど、そんなドラマティックな関係じゃなくて、平凡でほのぼのした出会いを待っていたのに・・・』
恋人を作るなら、気立てのいい子。
美人じゃなくてもいいから、話をしていて楽しい子。
ちょっと贅沢な注文をつけるとしたら、巨乳だったらいいなぁ。
・・・という具合に、俺の望みはその程度だ。それ以上は何も望んでないのに。
―――イルカは、心の中でそう溜息を吐く。
『ここは、即効断るべき場面だ。間違いない』
・・・・・・そう分かっているのに。
「ね…先生。すごく大事にしますから」
甘い声の誘惑は、イルカの理性を麻痺させて陥落させようと、誘いをかけてくる。
熱視線の主は…乳は無いが、器量よしで、話が合って。…しかも、すごく大事にしてくれるらしい。
『ど、どうしよう…』
目の前に、唇が迫ってくる。それを、受け取るか否か…?
ぶん殴って逃げない時点で、なんとなく自分の奥底に隠れた気持ちが見えた気がするのだけれど。
それでも届くまでの数秒間、艶まで加わった熱視線に体の奥が焼かれる錯覚に陥りながら、往生際悪く悩むイルカだった―――