「わあっ、綺麗だなぁ!」
半月の夜、風呂あがりに廊下から空を見上げ、月に誘われるようにフラフラと寝巻きのまま庭に下りた小松田秀作は、そう呟いた。
どうせなら月見亭で見よう・・・そう思い立ち、足を進める。
月見亭には誰も居らず、静寂な空間が広がっていて、幻想的な感じさえする。
秀作は池に架かるその建物の柵に腕をかけ、もたれるようにして月を眺めた。
『半月って、利吉さんの目みたい・・・』
そういえば、利吉さんに初めて会ったのも月夜だった。月の精かと思って、思わず見とれてしまったんだっけ。
月って利吉さんに似てる。綺麗で、澄みわたっていて・・・澄み渡りすぎて。まるで、触れてはいけない宝玉のようで。
―――そこにいるのに、何だか手が届かない気持ちになる。
「本当に、月って利吉さんみたい・・・」
そう呟いた瞬間、後ろから声がかかった。
「なにしとるんだ?小松田君」
「あ、山田先生」
振り向くと、夜回りの途中らしい伝蔵がこちらに向かって歩いてきた。
月見亭に入ると秀作の隣に歩み寄る。秀作は伝蔵の顔を見ると、にっこりと微笑んだ。
「あんまり月が綺麗なんで、月見してましたぁ」
「今日は満月じゃないだろう?」
月を見上げながら伝蔵が問うと、秀作はふわりと笑った。
「月は満月じゃなくても綺麗ですよ?私、どっちも大好きです」
「そうか?しかし、月が好きだとは・・・。どちらかというとお日様のほうが、あんたらしい気がするが?」
そう言いながら顔を向けると、秀作も小首を傾げてこちらを向く。
元結を解き、垂らしたままの髪の毛が風に揺れている。
「お日様も大好きですよ?明るくて、あたたかくて。花や動物たちも、みんなお日様のおかげで、元気になれるんです」
おっとりとそんな事を話しながら笑う秀作に、何だか心が和む。
本当に笑顔の似合う青年だ。いつもドジばかりで各所に迷惑をかけまくっているのに、憎まれもせず結構慕われているのはこの笑顔のせいかもしれない。
こんなところに、あやつは惹かれたのだろうか・・・?
―――この青年にいれあげている、息子の姿を思い出した。
「でもね、私、月にはなんだか憧れるんです。私にないものを持ってる、そんな気がして・・・」
「君にないもの?」
相変わらず、月に魅入られたように眺めつづける秀作の横顔を見て、問い掛ける。
「静かで、凛としていて、何者をも魅了してしまう輝きをもっていて。
その輝きは、他の星たちを霞ませてしまうほど綺麗で。
それでも触れてみたくて、手を伸ばしてみるんですけど、絶対届かないんですよね・・・」
そういうと、秀作は俯いた。風が少し癖のある髪を揺らしている。
「・・・・・」
自分には聞こえてなかったと秀作は思っているらしいが。
一人で月を見上げていた秀作は、確かに『利吉が月に似ている』と呟いていた。
では、今しがたの台詞は利吉のことか?ということは、小松田君も利吉のことを・・・?
「小松田君・・・」
そう声をかけた時―――不意に背後に気配を感じ、伝蔵は身構えるが・・・
後ろから聞こえてきた声は、よく知った声だった。
「父上」
噂をすれば何とやら。声の主は一人息子の利吉だった。
どこか憮然とした利吉の態度を少し訝しく思いながら、伝蔵は声をかける。
「仕事の帰りか?」
「はい。遅くなってしまったので迷いましたが・・・。父上ならまだ起きておられる時間だと思いまして」
この期に及んで、まだ自分をだしに使う息子に苦笑しながらその顔を見ると、やはり機嫌が悪そうだ。
『なんじゃ、こいつ?仕事で何ぞあったのか?』
そう思いながら息子を見つめていると、利吉は何度か伝蔵と秀作を見比べ、白々しくにっこりとほほえんだ。
「・・・ところで、こんなところで何をしておられるのです?二人きりで?」
『・・・なるほど』
息子台詞に合点が行った。
どうやら・・・自分の父親とはいえ、想い人が他の男と二人きりで夜更けに月見などしているのが気に入らないらしい。
『わしにやきもちなぞ焼いてどうする』
改めてそんなに惚れているのかと呆れながら、父親の自分でさえこのごろめったに見れなくなった、息子の青臭い仕草に可笑しくなってくる。
『若造が』
伝蔵はそ知らぬ振りをして、秀作の肩に手をかけた。とたんに利吉の顔が引きつる。
「なに。ちょっと嫁と月見を、な?」
「・・・よめ?」
秀作は不思議そうに、首を傾げた。引きつっていたはずの利吉の顔が、今度はみるみる赤くなっていく。
「な、何仰ってるんですか!父上っ!」
明らかに動揺している利吉と、してやったりといった顔の伝蔵を見比べて、秀作はもう一度首をかしげた。
「よめ???」
「こ、小松田君!ただの、父上のおやじギャグだから、気にしないでくれ」
「はぁ」
うろたえる息子を勝ち誇ったように見ながら、伝蔵は踵を返した。
「じゃあ、わしは見回りに戻るかな」
そう言って月見亭を出た時、ふと思いついて足を止めた。
「小松田君」
「はい?」
呼ばれた秀作は、柵から身を乗り出すようにして、伝蔵の方を見る。
「―――案外、君が気づかぬだけで、月も君のそばに降りたいと手を伸ばしているかも知れんぞ?」
「え?」
それだけ言って、伝蔵は月見亭を後にした。
「あやつも、苦労するな・・・」
歩きながら、伝蔵の口から、そんな言葉が漏れていた。
******
伝蔵が歩き去るのを見送った後、利吉は秀作の方へ向き直り、秀作の顔を覗き込んだ。
「何の話だい?」
秀作は頬に手をかけ、ちょっと考えながら口を開く。
「月のお話をしてたんです。
『月って綺麗で、触れてみたくて手を伸ばすんだけど、絶対届かない』って、さっき私が言ったから・・・」
「へぇ?」
あの父がその話を聞いて、あんな童話めいた答えを返すとは。なんだか、意外な気がするが・・・。
その時秀作が、ぶるっと身震いをした。
「寒いのか?」
「ええ。ちょっと冷えちゃったみたいです」
「まったく。だから、風呂あがりにそんな格好でフラフラ歩いてはいけないって、いつも私が言っているだろう?
・・・中に入ろう、風邪を引いてしまうよ」
そう言って、秀作の肩に手をかけ、歩くように促す。
「もうちょっと・・・もうちょっとだけ、いけませんか?」
名残惜しそうに、月見亭の柵につかまり動こうとしない秀作に、利吉はため息をひとつついた。
―――後ろから抱きしめるように、秀作の体に腕を回す。
「り、利吉さん?」
首をひねり、少し顔を赤らめ利吉の方を見る秀作に、利吉はやさしく微笑んだ。
「寒いんだろう?私も今、貸してあげられる物を持っていないしね。・・・・・こうしていれば、暖かいよ」
「はい・・・ありがとうございます。すごく暖かいです」
利吉の腕の中に収まりながら―――秀作の脳裏にさっきの伝蔵の言葉がよみがえる。
『私がもっと手を伸ばしたら、月は私の手を取ってくださるんでしょうか?』
心の中でそう呟きながら、秀作は自分に回された利吉の腕にそっと手を重ね、月を仰ぐ。
月の明かりが、そんな二人を、包み込むように照らしていた。