大岩が谷底に落ちる音を聞いて、秀作はハッとしたように崖へと向かって走り出した。
崖の端で膝を付き、崖端の草を掴むようにして身を乗り出す。
覗き込むと、思った以上に深い谷。
その谷底に、先程の大岩が落ちて、割れているのが見えた―――
一瞬くらりとして・・・そして、秀作は谷底に向かって叫ぶ。
「利蔵くん!!」
秀作の声が、谷の中で反響し、消えていった――――
・ その日、見上げた君 ・ ――9――
「そんな・・・・・」
返らぬ返事に、ジワリと秀作の瞳に涙が溜まる。
あんなに小さい子なのに、守ってやれなかった。
それどころか、小さな手のひらを目いっぱい広げて、守ってくれた・・・。
―――ポロリと、秀作の瞳から涙がこぼれた時、不意に声が聞こえた。
「縄を降ろしてくれないか?」
その声にピクリと肩を揺らして、慌ててもう一度谷を覗き込む。
そこには、谷途中から生えた一本の松の木が見えた。
不自然に崖の途中に斜めに生えた、短い幹の松の木。
その下に、松にかぎ縄を引っ掛けてぶら下がっている利蔵が見えた。
「利蔵くん!?」
「早く縄を・・・この体じゃ体力がもたない」
「う、うん!」
「・・・ああ、慌てなくていいから。縄を落とすなよ?」
あわあわと慌てながら縄を取り出す秀作に、落ち着くように声を掛ける。
そして、穴から抜け出した時のように、近くの木に縄の端を結びつけるように指示を出した。
******
秀作に縄を引いてもらいながら谷を這い上がって、利吉はやっとホッとしたように息を吐いた。
だが、その直後に再び息を詰めた。
・・・何故なら、崖上に降り立つなり秀作が利吉にしがみついて、ぎゅうぎゅうに抱きしめてきたからだ。
「こ、小松田君・・・くるし・・・・・」
「・・・・・・・・・良かったっ!!」
「え?」
搾り出されるように出された声に、目を見開く。
自分にしがみ付いた彼を見ると、その肩が小刻みに震えている。
きつく抱きしめられているせいで彼の顔は見えないが、「ひっく、ぐすっ」っと、嗚咽が聞こえた。
利吉は困ったように、視線をうろうろと彷徨わせると、腕を伸ばして彼の背に回す。
そして、小さな手で彼の背中を慰めるようにさすってやった―――
それでもなかなか秀作は泣き止まず、しばらくそうしていた利吉だったが・・・
いつの間にか泣き声が聞こえなくなったのに気がつき、背中をさする手を止めて、声を掛けた。
「落ち着いたか?」
「・・・・・うん」
やっと抱きしめた腕を解き、身を離した秀作の顔を見つめると、鼻も目も、真っ赤になっていた。
泣きはらした顔をみて、再び落ち着かない気分になり・・・視線を外してから、声を掛ける。
「心配・・・かけたね」
「ううん。僕のほうこそごめんね、守ってあげるどころか助けられちゃって・・・」
僕、大人なのに・・・ごめんね。
しゅんと、さすがに落ち込んでいるような秀作に、利吉は慌てた。
「いや、その・・・謝る事はないよ」
「でも・・・」
「・・・信じてもらえないかもしれないが、私はこれでも忍なんだ」
だからこれしきの事、なんでもないよ。
そういうと、秀作はきょとんと瞬きをした。
「利蔵君、そんなに小さいのに、もう一人前の忍者なの!?」
「ああ・・・一応ね」
「すごいなぁ!利蔵くんって五つくらいでしょ?それなのにもう忍だなんて!!」
だから足も速いし、色んな事知ってるし、さっきみたいな事もできたんだね!?
僕なんか未だに忍者になれずにいるのに、利蔵君はすごいなぁ!!
『すごいすごい』と無邪気にはしゃぐ秀作にホッとする。
・・・確かにイライラするし苦手な相手ではあったが、彼には笑顔が似合うと思う。
だからこんな風に泣かせてしまうのは、なんだか嫌だったのだ。
「ああ、でも本当に良かった・・・僕、てっきりおっこちちゃったのかと思った」
「ここには以前来た事があってね・・・だから、あの場所に松の木が生えてるのを知っていたんだ」
以前、忍たま三人組のひとり、きり丸があの崖から落ちた事があった。
慌てて助けに行ってみれば、偶然あったあの松の木に引っかかっていて、事なきを得た。
その事を思い出して、秀作が穴に入った後、走りながら腰にカギ縄を巻きつけて崖から飛び降り、落下しながらかぎ部分を松の木巻きつけて、あの木にぶら下がった。
予想外の動きをする大岩だったから心配だったが、うまく成功してよかったと、改めてホッとする・・・
谷に落ちて割れた岩はもうピクリとも動かなかったから、とりあえずこれ以上アレに追いかけられる事はないだろう。
だが・・・・。
「すっかり、日が落ちたな・・・」
「あ、ほんとだ」
辺りは、とっぷりと暮れてしまっていた。
早く山を抜け出したいと急いでいたのだが、どうやらそれは阻止されたようだ。
『この得体の知れない山で夜を明かすのか・・・』
だが、無理にこの闇の中を進めば、その『得体の知れないなにか』を別にしても危険なのは明白だ。
自分は夜目も利くが・・・自分ひとりならまだしも、今は秀作がいる。
明るい昼間でもコケたり穴に落ちたりしている彼を、この闇の中進ませる訳にはいかないだろう。
『ここで夜を過ごすしか、ほかないか・・・』
そう心を決めた途端、風が吹き抜けた。
ざわざわと、木々が大きくざわめく。
・・・・・・・・・・・まるで、利吉の決断を喜んでいるようにも聞こえる。
「・・・・・やはり、ここから出したくないということか?」
利吉がそう小さく呟くと、空を見上げていた秀作が振り向いて、首を傾げた。
「利蔵君、なんか言った?」
「いや・・・とにかく、これ以上進むのは無理だろう。今日はここで野宿しよう」
「うん。・・・どこがいいかなぁ?」
「すぐそこの斜面に、熊の巣穴があるんだ。そこにしよう」
「くまと寝るの?」
「それも楽しそうだがな・・・残念ながら、今は空き家だよ」
こっちだよ。
そう言って夜目の利く利吉は、周囲に注意を払いながら、秀作の手を取って歩き出した。
周りの木々が、まるでひそひそと噂話でもしているように、あっちでざわざわ、こっちでざわざわとざわめいている。
『敵の思惑どおり・・・か』
忍として、何度も危機を乗り越えてきたからこそ分かる。
コノヤマハキケンダ
そう利吉の第六感が告げているが、今のところ手立てがない。
しかも、何日も穴の中で暮らした幼い体は、すでに限界だ。
『勝機があるかどうかはわからないが・・・』
なんとか突破口を見つけて攻めるしかない。
だが、とりあえず今は体力を回復させなければ・・・。
利吉は秀作の手を握る己の手に少し力を込め、離さぬように闇の中を進んでいった――