利吉は、与えられた部屋の天井を見つめる―――――
『秀子』
利吉の唇が、彼女の名前を呼ぶように動いたが、声は出なかった。
『しゅう、こ』
次に姿を思い浮かべようとして――――うまく、いかない。
つい、昨日あったばかりなのに。
昨日、彼女の膝で赤子のように安心して眠り、胸の中に何かが満たされていくのを確かに感じたのに・・・・・・・・・
なのに――――彼女から離れた途端、それはどんどん失われていってしまう。
彼女に別れをつげ、彼女との距離が遠くなるほどに・・・それは自分の身からポロリポロリと剥がれ落ちていくようだった。
『しゅう・・・?』
名前さえ、忘れそうになる。
だが・・・・・・・それに焦る心さえも、一刻一刻と時が経つ度に失われていくのだ。
心に空洞が出来ていくような、感覚。
『このままでは、確実に忘れてしまう・・・・・』
だが、それでも良いと思えてしまう。
いや、その方が良いさえ思え―――その気持ちはしだいに強くなっていく。
利吉は一度目を瞑り、懐からクナイを取り出した―――――――
******
「はい、利吉さん!きょうは、ごまですよ〜♪」
「・・・ありがとう」
受け取ろうと手を差し出す。
秀子はその手に串を渡そうとして――――息を飲んだ。
彼女の視線は、団子を受け取ろうとした手ではなく、利吉のひざの上にあったもう片方の手に注がれていた。
「利吉さん、それっ」
目を見開いて一点を凝視している彼女の視線の先にあるものに気がついて―――
利吉は苦笑して・・・拳を作る事で、それを彼女の目から隠した。
「ああ・・・ちょっと、怪我をしてね」
「ちょっと、って・・・・・深かったですよ!?」
「うん―――でも、血は止まっているし、大丈夫」
秀子が驚きの声をあげて見つめたもの・・・・・それは、利吉の手の平にあった、傷。
何か鋭いもの刺し突かれたような傷は、真新しく――――深かった。
「知り合いに良い医者がいてね。ちゃんと手当ては受けたから」
「で、でも・・・血は止まったっていいますけど、まだ滲んでるじゃないですか!?何で包帯くらいしてないんです!」
もちろん、傷を見た新野先生に包帯を巻かれた。
だが、血がある程度とまったのを確認してすぐ、それは自分で取り去ってしまっていた。
この傷は、彼女を忘れてしまわないように自らつけた傷――――隠してしまっては、意味がない。
だから包帯を取り去って、ここに来るまでずっと傷を見続けていたのだ。
――――――誤魔化すように、利吉は曖昧に笑った。
「ああ・・・・・でも」
「でもじゃありません!!傷口にバイキン入っちゃいますよっ」
秀子はごまだんごを笹の葉の上に戻すと、懐から手ぬぐいを取り出した。
「お、おい・・・・・」
ビリビリと言う音に、利吉は焦ったような声をあげる。
鳥の刺繍が入ったそれは、団子屋の娘が持つにはかなり上物。
それを彼女は口と手を使って、惜しげも無く引き裂いてしまった。
「利吉さん、手を貸してください」
彼女は利吉の手をとると、細く包帯状になったそれをその手にくるくると巻いていく。
不器用らしく、あまり上手とはいえなかったが、それでもちゃんと傷口は覆われていき。
最後に、それは手の甲で羽を広げた蝶のような形に結ばれた。
「これで、いいです」
秀子は、満足そうに呟く。
それに苦笑しながら、利吉は素直に礼を言った。
「・・・・・・・すまない」
「どういたしまして!・・・でも、何でそんな怪我しちゃったんですか?」
「ん・・・ちょっと、ね」
「?・・・・・でも、大事にならなくて良かったです」
気をつけてくださいね?
秀子はそう言って、利吉の怪我した手を、自分の両手でそっと包みこんで、微笑んだ。
彼女の温かい体温を布ごしに感じながら、利吉は目を細める。
そして、秀子の微笑みに吸い寄せられる様に顔を近づけていく――――
彼女の唇まで、もう少し。
だが、瞳を閉じた利吉の唇に触れたものは―――柔らかいが、やたらヌルついているものだった。
違和感に目を開けると、目の前に黒いモノ・・・・・ごまだんご。
いつの間にか利吉の手から離れた秀子の片手が、利吉の口に団子を押し付けていた。
「・・・・・おい」
「え?だんご食べたいんじゃないんですか??」
急にお顔が近づいてきたから、だんごをねだられているのかと・・・違うんですか?
そう言って首を傾げる秀子に、『ワザとか?』と疑念の視線を向けるが―――利吉はすぐに剣呑な視線を止めた。
『違う・・・・・この娘、本気でわかってない』
はあ。と大きなため息をつく利吉に、秀子はまたまた首を傾げ。
じっとその顔を見つめてから、笑い出した。
「・・・・・なに?」
凹んでいるのに笑われて、利吉は不機嫌に睨む。
だが、秀子はそんな不機嫌さを全く気付いていないようで、更にクスクスと笑った。
「だって、おひげがついたみたいなんですもん」
「髭?」
口元を指で触って、思い出した。
―――――今日のだんごは、黒ごまダレのだんご。
「・・・・・君がやったんじゃないか」
「そうでしたね、すみません」
まだ可笑しそうに肩を震わせながら、秀子はさっき引き裂いた残りの手ぬぐいで、利吉の口を丁寧に拭った。
そして、あらためて利吉にだんごの串を渡そうと、差し出した。
「はい、どうぞ?」
その串を不機嫌な瞳で睨みつけた後、利吉はボソリと呟いた。
「・・・手が痛くて、食べられない」
「え?」
「手が痛いから、串が持てない」
「・・・え、でも?怪我したのは、片手・・・・・」
「痛いんだ」
利吉が何を言いたいか分かりかねて、眉を寄せる秀子。
だが・・・少しの間の後、ようやく分かったようで、微笑んだ。
秀子の視線の先で――拗ねたような顔で、目を閉じた利吉が口をあけて待っていた。
「・・・はい♪利吉さん、あーんv」
優しく口のなかにさしいれると、一つ目のだんごが利吉の唇で抜き取られる。
「はい、二つ目もどうぞ・・・あーん」
二つ目は、箸で――――
そうして、利吉は一串二串と、どんどん団子を平らげていく。
『おなか・・・今日も空いてるのかな?』
利吉の食べっぷりに、内心驚く。
『でも、なんだか・・・・・・』
雛鳥に餌をあげているみたい。
また口をあけた利吉に、秀子は微笑んだ。
******
「じゃあ利吉さん、また明日」
元気良く立ち上がった秀子だったが、歩き出す前に何かに袖を引っ張られた。
木の枝でも引っかかったのだろうかと、目線を下げて見る。
だが、袖を引いたものは木の枝などではなく・・・・・利吉の手だった。
「もう少し」
「利吉さん・・・・・」
「まだ、行かないでくれ」
「どうしたんですか?なにか・・・・・あっ」
腕を引かれ、バランスを崩した・・・・と思ったら。
―――――次の瞬間、秀子は利吉の腕の中にいた。
利吉の腕の中で、秀子が驚いたように利吉を見上げると―――そこには、彼の苦悩の表情があった。
「側にいて・・・・・くれ」
君の手を離せば、私はまた・・・・・!
利吉は、秀子の体を掻き抱く。
「利吉さん・・・・・・・」
自分の肩口に額を押し付けて、すがり付いてくる男をじっと見つめ。
秀子はポツリと、呟く様に問いかけた。
「私なんかでも・・・・・・・お側にいれば、少しは利吉さんのお役に立てるんですか?」
かけられた彼女の言葉に、利吉は押し付けていた額を離し、彼女の顔を見つめた。
「君なんか、じゃない!君じゃなきゃ、駄目なんだ・・・・・・っ」
君に、側にいて欲しいんだ―――――
苦しげに・・・・・うめくように懇願する利吉を見つめ。
しばしの間の後、秀子は彼の背にゆっくりとした動作で腕を回した。
あやすように、彼の背中を撫でる。
「―――はい」
微笑んで、頷いた。
「私で良かったら、お側にいます」
「秀子・・・・・・」
あなたのお役に立ちたいです。
そう微笑む彼女をもう一度きつく抱きしめなおして、利吉は再びその肩に額を押し付けた。
ただし、伏せられた表情は、今度は苦悩ではなく――――歓喜に満ちていた。
「ありがとう」
満ち足りた声色で礼を言う利吉。
だが・・・今度は秀子が困ったような声を出した。
「あの・・・・・でも、少しだけ時間をくれませんか?」
「え?」
「―――私、もさ助さんにご恩があるんです」
「恩?」
「はい。私、ご恩返しに店をお手伝いしていたんです。そのお手伝いの期限が明日までなんです」
最後までやり遂げてから、辞めたいんです。明日の夕方まで待って頂けませんか?
その言葉に、利吉は口を噤んだ。
無理を言っているのは自分、ここはすぐに頷くべきところだろうが・・・・。
『明日まで、私は己を保っていられるだろうか?』
今日は、何とかここに来れた。
しかし・・・・・明日ここに来れる保障はないのだ。
行って欲しくない。
このまま攫って連れかえりたい。
だが――――――
「利吉さん、お願いします」
懇願してくる秀子に、利吉は断りの言葉をいう事ができなかった。
「――――わかった」
「よかった!・・・じゃあ、明日」
明日はいつもの時間じゃなくて、夕刻に――ですからね?間違えないで下さいね!
そう言って微笑む彼女に、意を込めて頷いた。
「――――――――ああ、夕刻に」
利吉の言葉に秀子はもう一度にっこりと笑い、そっと彼の腕の中から離れる。
そして、利吉の怪我をした手を両手で包みこみ、『ちゃんと包帯替えて下さいね』と言い残して、去っていった。
―――――彼女の背中が、遠ざかる。
明日も、必ずここにくる――――――地を、はいずってでも。
彼女の巻いてくれた手ぬぐいの結び目の鳥の刺繍を見つめながら。
利吉は、そう胸に決意を刻んだ―――――