利吉の名を呼んだ秀子の声が途切れた―――
「し・・・・・」
彼女の名を呼び返そうと思っても、喉が張り付いてしまったように引きつって、声が出ない。
真っ白になりかけた頭をのろのろと動かして、自分の手を見る。
この手は自分の思うようには、動かない。
自らの意思では、ピクリとも動かないのだ。
でも、動かないにもかかわらず、握った冷たい鋼の感触は感じる。
己が握っているのは、愛用のクナイ。
利吉がいつも自ら研いでいるもので・・・切れ味には自信があった。
そのクナイがずぶりと突き刺さっているその先を見つめる。
「ぐっ・・・ふ」
秀子の口から苦しげな音がもれ、彼女は顔を歪ませえて目を閉じた。
正面を向いていた彼女の顔が、カクリと力を失ったように横を向く。
―――利吉は、張り付いた喉を無理に引き離すようにして、嗄れた叫びをあげた。
「しゅうこおぉぉ・・・!!!」
利吉の手に握られているクナイが突き刺さっているのは、秀子の左胸。
その恐ろしい光景に、声はあげられても・・・利吉の手は動かない。
獣のような唸り声を上げ、動かない体をなんとか動かそうと必死にもがく利吉の頭の中に、底冷えするような冷たい声が響いた。
『最初からこうすれば良かったな・・・ちと酔狂が過ぎたか』
その声に、利吉は先程まで叫び声をあげていた口を閉じて、ギリリと歯噛みする。
「貴様・・・」
『―――なんだ?』
「きさまぁああああ!!よくも、秀子を!!!」
『貴様?よくも?―――笑止!』
鬼は、そう言って可笑しげに笑い声をあげた。
『この娘を殺したのは、お前ではないか?』
己の手を見るがいい―――
そう言われて、利吉は目を吊り上げた。
「俺の意思ではない!貴様が、貴様が・・・・・!」
怒りで、目の前が真っ赤に染まっていく気がする。
憤慨と悲しみで、狂いそうになる。
―――しかし、怒りに駆られる利吉は気付かないでいた。
先程、利吉の心の中に出来た光の点が、次々に消え去っていく事に。
利吉の表情はただの怒りではなく、まさに鬼の形相に変わっていく。
やり場のない怒りが次々に噴出してきて、己を保っていられない。
彼の顔は修羅へと変化していく。
―――利吉の体内で、鬼はにぃと、笑った。
『おうおう、いい貌になってきおった―――』
ほくそ笑む鬼の目の前で、光は種は次々と消えていく。
利吉の顔は、どんどん歪んでいく。
―――だが。
突如、利吉は固まったように動きを止めた。
もとから、体の自由は利かないが・・・唯一動かせていた頭部の動きまでが止まったのだ。
『なんだ?』
鬼は、首を傾げて利吉の心の中を再び覗き見る。
次々と消え去って行った光の種だが、一つだけまだかろうじて残っているものがあった。
―――その光の中に見えるのは。
「秀・・・・・・子」
利吉はそう呟く。
唯一残っていた光は・・・自分が今、手に掛けてしまった秀子の笑顔だった。
彼女の言葉が頭に浮かぶ。
『利吉さん、何かに負けそうなんですよね?でも、私、信じてます!』
―――利吉さんなら、必ず勝てるって!
『だめだ・・・』
利吉の狂気の表情が揺らぐ。
『怒りに我を忘れてしまえば、彼女の言葉が、彼女の気持ちが、無駄になる・・・』
そして、なにより・・・・・。
「・・・なにより、この笑顔を消して堪るものかっ!!!」
利吉の瞳に、光がもどる。
「出て行け・・・・・・」
私の中から、出て行け――――!
利吉の心からの叫びに共鳴するように、秀子の笑顔の種が大きく膨らんでいく。
利吉の心の中が、光に満たされていく―――。
『なにっ!?・・・・・ぐうっ・・・ふ』
「つうっ・・・・・はあっ・・・うぐっ」
鬼の苦しげな呻きと、利吉の痛みを噛み殺すような喘ぎ。
その二つが同時に響いた後、利吉の体内から光に押し出されるようにして、黒い影がずるりと出てきた。
「はあっ、はあっ・・・」
息を切らしながら、利吉が体を起こす。
なんとか立ち上がって圧し掛かっていた秀子の体を解放した利吉だったが・・・
力が入らず、よろよろと数歩後退るようによろけて、地面に尻餅をついた。
「うご・・・ける?」
思うようには動かない・・・だが、確かに自分の意思で体が動いている。
それを確認して、利吉はすぐさま秀子に視線を向けた。
―――だが。
「・・・!?」
利吉は目を見開く。
何故なら、数歩ほど離れた己と横たわる秀子の間に、何か蹲るものがあったからだ。
「鬼・・・か?」
先程、自分の腹の中から鬼が抜け出るのを感じた。
だから、それは抜け出た鬼だろうと予想をつける。
―――同時に、失敗したと内心で舌打ちをした。
『秀子から離れるのではなかった・・・』
鬼のほうが秀子により近い位置にいるのに焦りながらも、その蹲るものに目を凝らす。
利吉が見つめる中、それはゆらりと上体を起こした。
「鬼・・・だと?」
その声に、利吉は体を強張らせた。
「鬼は、お前の方だろう?」
利吉の目の前でそう言う男の姿は、自分と寸分たがわぬ、己の姿だった―――