ふと、肌寒くなった気がして、利吉は目を開けた。
隣を見ると、先ほどまで腕の中に居たはずの秀作の姿が無い。
彼の温もりが消えてしまった自分の左腕を見ながら、呟いた。
「目を閉じてから、大して時間が経っていないような気がしたんだが・・・思いのほか長い時間眠っていたのだな」
先ほど目を閉じたばかりで、少しうとうとしただけのつもりだったが・・・どうやら本気で眠りに落ちていたらしい。
その証拠に秀作の姿が無い。きっと、寝入ってしまった私の腕から抜け出して、また仕事に戻ったのだろう。
時間になったら仕事に戻ってくれて良いと言ったのは自分だ。
だが、こうして目覚めた腕の中の彼が居ないのを知ると、酷く残念に思ってしまう。
おまけに・・・。
「寒い・・・」
秀作を抱いて横になった時はすぐに眠りに誘われるほど暖かかったのに、今は思わずぶるりと体が震えるほどに寒い。
しかも、辺りが薄暗くなっていた。
「日が翳ったのか・・・?いや、もう夕刻になったのか。・・・そんなに長く寝ていたのか、私は?」
自分がこの場所に来たのは秀作の休憩時間の辺りだったから、八つ時だったろうか。
今日は天気が良くとても暖かな日和だったから、ちょっと日が翳ったくらいでこんなに暗くはならないだろう。
きっと日が落ちる時間まで寝てしまっていたのだ。
「そろそろ、秀の仕事も終わりだろう・・・まだ私が学園に帰っていないのを知ったら、慌てるかもしれないな」
慌てて走ってきた彼がまた坂を転がり落ちる前に、戻るとするか・・・。
苦笑と共に上半身を起こした利吉は、ふと足元を見てぎょっとした。
―――自分の足元に、赤いモノ。
「・・・っ!?」
足元の赤い塊はどろりと蠢くと、みるみるうちに人形(ひとがた)へと形を変えて。
そして―――その赤い人形はゆらりと顔を上げ、利吉に振り向いた。
「もう、終わったと思ったか?」
赤い人形は利吉に問いかける。
カタカタカタ―――。
我知らず、体が小刻みに震える。
息を呑み、答えられぬまま見つめている先で・・・どろりとした人形はだんだん形を変えていき。
そして―――先日振り払ったばかりの赤い鬼の姿に変わる。
目を見開き、ビクリと体を引いた利吉の足元で、鬼は笑った。
「言ったろう?・・・一度闇を宿したお前は簡単に闇に染まる」
終わりなどないよ・・・・・利吉。
鬼の言葉に、利吉は声にならぬ悲鳴を上げた―――
・ 鬼と花 ・ ――三十 ――
逃れられない。
逃れられない。
逃れられない。
心の中で叫びながら、利吉は鬼を見つめる。
そんな利吉を、鬼も見つめている。
・・・しばらく動けずにそのまま鬼を見ていると、鬼の醜悪な顔の口元に赤い亀裂が入った。
にぃ、と―――鬼が笑う。
胸に広がる恐怖に、利吉はとうとう利吉は声をあげた。
今まで出したことも無いような、恐怖に引き攣った己の声が辺りに響く。
怯える利吉を嘲笑うように、鬼は赤い亀裂を深くし、誘うようにゆっくりと手を伸ばしてきた。
赤い手が、もう少しで触れる―――
俺は、やはり闇から逃れられない・・・・・・・・・
「利吉さんっ!?」
絶望しかけたその時―――
突如闇に光の玉が飛び込んできて、闇が弾け飛ぶように消えた。
・・・光の玉から、心配そうな声が聞こえる。
「・・・きちさん、利吉さん!」
「ハ・・・ッ」
揺さぶられて、目を開ける。
目の前には秀作の顔―――心配げに上から覗き込んでいる。
「秀・・・?」
「大丈夫ですか!?」
「だいじょう・・・?」
「すごくうなされてましたよ?」
「うなされ・・・?ああ・・・そうか」
また、闇に取り込まれる夢を見ていた―――
心の中で呟き、利吉は息を吐いた。
鬼は消え・・・傷は負ったものの、元に戻れた利吉だったが。
―――あの時の恐怖は簡単には消えなくて、悪夢を見て飛び起きる事がよくあった。
「ちょっと、嫌な夢を見ていたようだ。気にしないでく・・・っ!?」
秀作を安心させようとそう言いながら上半身を起こした利吉だったが、突然ビクリと体を揺らし、言葉を途中で切った。
『鬼・・・!?』
自分の投げ出した足元に、赤いものを見つけて利吉は体を強張らせる。
知らず、体が震えていく・・・。
「利吉さん?」
「・・・に」
「え?」
「鬼が・・・っ!」
不思議そうに利吉が指差す先を見て、秀作は首を傾げ。
あろうことか、その鬼に手を伸ばした。
「秀・・・っ!?」
慌てて制止しようとするが、秀作はそれを手の上にのせて。
・・・そして、笑った。
「違いますよ、利吉さん。ほら良く見て?―――鬼じゃないです」
「ちが・・・う?」
「ええ・・・ほら、これは花です」
「は・・・な」
はぁはぁと荒い息をしながら、利吉は秀作の手の上の物を見る。
それは確かに、赤い鬼―――ではなく、赤い花だった。
「ほら、石榴の花ですよ?利吉さんの隣に石榴の木があるでしょう?風の悪戯か鳥の悪戯か・・・落ちちゃったんでしょうね」
残念そうにそう言い、落ちてしまった花を慈しむように掌で包み込む秀作を、利吉は呆けたように見つめた。
「花・・・だったのか?」
「ええ、そうです。花ですよ・・・これ以外にも、ほら!」
指差されて隣にある石榴の木を見ると、枝には赤い花がいくつもついていた。
「花・・・か」
「石榴だけじゃなくて、他にも花はいっぱいありますよ?」
言われて見ると、雑草としか思わず気に留めもしないでいたが・・・自分が寝転がっている周りにも、小さな花がいくつもあった。
利吉の体から力が抜ける。
だが、掌を見つめると、まだ僅かに震えていた。
己の震える手を見つめていると、秀作は突然自分の手にあった赤い花を震える手の平に乗せて寄越した。
思わず、利吉の体がビクリと揺れる―――。
動揺する利吉をよそに、秀作はその震える手を自分の手で包み込んで・・・手ごと引き寄せ石榴の花の香りを嗅いで、微笑んだ。
「花の香りっていいですよねぇ、それに今日はお天気も最高だし〜」
のんびりとした彼の口調に、強張った体から力が抜ける。
のろのろと空を見上げると・・・先ほどまで見ていたような薄暗い空ではなく、青い空とぽっかりと浮かぶ白い雲が見えた。
いまだ日は高い位置にあり、夕刻まで寝てしまった訳ではなく、寝入ってからいくらも経っていないと知る。
つまり、秀作もまだ仕事には戻っていなかったのだ。ずっと隣にいてくれた。
先ほどの暗い空と復活した鬼は、すべて夢・・・。
視線を落とすと、己の手の中の赤いものも、今度はちゃんと花に見えた。
『鬼じゃない・・・花だ』
利吉は、やっとホッとしたように重い息を吐いた。
「ここ、本当に綺麗な所ですよねぇ。この場所大好きです〜」
鬼との死闘をここで繰り広げたことなどすっかりと忘れたように、のほほんとそんな事を言う秀作に・・・利吉もつい苦笑を浮かべてしまう。
「君って・・・」
「え?あれ、利吉さん笑ってる・・・私、何かおかしなこと言いました?」
「だって・・・いや、いいけど」
「??・・・よくわからないけど、利吉さんが笑ってくれて嬉しいです」
嬉しそうに微笑む秀作の笑顔に、震えも止まり、心の中まで晴れ渡っていく気がする。
「秀」
「はい?」
「君って、すごいな・・・」
「は?」
薄暗い空が、澄み渡った青空に変わる。
醜悪な鬼が、可憐な花に変わる。
―――君といると、世界が美しく見える。
笑みを浮かべる利吉に、秀作は首を傾げていたが、ふと気がついたように呟いた。
「あれ、利吉さん額に汗が・・・・・・あっ!」
悪夢にうなされた利吉の額に汗の玉が浮かんでいるのに気がついて、秀作は懐から懐紙を取り出すが・・・悪戯な風が、それを空高く舞い上げてしまう。
慌てる秀作を見て、利吉は咄嗟に手裏剣でそれを近くの木に縫いとめた。
「わあっ!利吉さんすごい!!さすがだなぁ・・・少しの間お休みしちゃいましたけど、これなら怪我さえ治ればいつでもお仕事に戻れますねぇ」
無邪気に喜んでそんな事を言う秀作を、利吉は複雑な顔で見つめた。
「・・・戻って、いいのかな」
「ええ、全然腕は鈍ってないと思いますよー?」
「そうじゃない」
「え?」
「・・・・・・」
『私は―――鬼にとりつかれるような男だから、忍を続けるべきではないかもしれない』
そう言葉に出すべきか迷って・・・結局口に出せずに黙り込む。
彼には散々弱い自分を見せてしまっているのだから今更かもしれないが・・・こんなにも弱い自分の心の内を晒すのには、やはり躊躇してしまう。
「利吉さん?」
「いや・・・なんでもない」
「??」
秀作は不思議そうな顔をして、そして・・・何気ない調子で言った。
「それにしても・・・利吉さんが手裏剣を投げる姿、かっこよかったです〜」
「え・・・?」
「私、忍者になりたくて忍術教室に行かせてもらったりしたけど、全然うまく出来なくて・・・やっぱり、才能ないんですかね」
しゅんと眉を下げる秀作に、利吉は言葉を詰まらせた。
そんな事はないよ、と―――言葉だけで言ってやるのは簡単だが、忍とは生半可な気持ちでこなせるような仕事じゃない。
確かに秀作に忍の才があるとは思えなかったし、そんな彼が憧れだけで忍仕事に就けば、必ず大きな怪我をするだろう。
そして、怪我どころが、命の危険さえ・・・。
―――そんな危険は、絶対犯させるわけにはいかない。
「・・・君には、忍より事務の仕事の方が向いているかもしれないよ」
「・・・事務の仕事も失敗ばかりで、さっき『向いてない』って言われてきたばかりなんですけど・・・」
「・・・・・・」
秀作は、そう言ってまたへにゃりと眉を下げた。
忍を諦めさせたいというのもあるが、『元気づけよう』と思い言った言葉は、どうやら逆効果だったようだ・・・。
俯いてしまった秀作に、どうしたものかと困っていると・・・突然、彼はひょっこりと顔を上げた。
「でも・・・利吉さんがそう言うなら、今は事務のお仕事頑張ってみますね!」
忍のお仕事も、もう少し修行すれば出来るようになるかもですし♪
落ち込んだのはほんの一瞬で、秀作はそう言ってにこにこと微笑んだ。
『忍の方は是非とも諦めて欲しいんだけど・・・』と思いつつも、とりあえず元気を取り戻したのにホッとして、利吉も笑顔を浮べる。
利吉の笑顔に、秀作は嬉しそうにまた笑顔を返して。
そして―――何気ない調子で言った。
「私に忍者は向いてないかもですけど・・・利吉さんは忍の仕事が向いていると思います!利吉さんの今までの活躍、山田先生や土井先生にお聞きしたんです・・・私、憧れちゃいます〜♪」
瞳をキラキラさせてそんな事を言う秀作に・・・利吉は、バツが悪くて目を逸らした。
自分は鬼を生むような男―――憧れられるような者ではない。
「・・・・・・そうかな」
「はい!今は怪我を治して欲しいから、ゆっくり休んでもらいたいですけど・・・新野先生が利吉さんは怪我の治りが早いって言っていたから、またすぐにお仕事に戻れますよ」
「・・・そうだな。でも・・・・・・」
忍に戻れば、また鬼を生むかもしれない―――
先ほどは押し隠した弱音が、つい出てしまった。
言葉に出してしまってから、不安を与えてしまったかと心配になり、彼の顔を見る。
だが、秀作は心配そうな顔はしておらず、きょとんとしていて・・・そして、あろうことか、花がほころぶように微笑んだ。
「利吉さんは本当は優しい人だから、もうそんなもの生まれないと思います。それに・・・もし、また鬼が出てきたとしても、何匹でも私がぽぽ〜んと消しちゃいます!」
私、忍者には向いてないかもしれないですけど、鬼退治は向いてるみたいですから。
まかせてください!
無邪気に言って胸を張る秀作に、呆気に取られて。
しばらくして、利吉はまるで泣き出しそうに顔を歪めた。
君といると、世界が美しく見える。
そして、怯えて縮こまった心が解れ、勇気が沸いて来る。
利吉は秀作を掻き抱いて、その肩に顔を埋めた。
「り、利吉さん??」
「・・・傷が癒えたら、私は仕事に戻る」
「・・・はい」
「仕事に戻れば何日も帰れないから、君に一緒に暮らしてくれとは今は言えない」
だけど、仕事を終える度必ず君のところに帰るから・・・帰ってきたら、一緒に過ごしてくれるかい?
顔を上げ―――秀作を見つめてそう言うと、彼はまた花のように笑った。
「はい、お待ちしてます!」
嬉しそうな秀作に微笑んで、再び彼を抱きしめる。
空は澄んでいて、青い。
足元にある赤いものは、花。
そして―――腕の中のぬくもりは、愛しい人。
―――もう、夢でも鬼を見る事は無いだろうと・・・そう思う、利吉だった。