「准将、手が止まっておられるようですが」
「あ・・・・・ああ。すまない」
書類に向かって、ちゃんとペンも持って。
遊んでいるわけでもなく、無駄口を叩いているわけでもないが・・・・・・一向に仕事ははかどらない。
注意すると素直に謝って再開するものの、またすぐにぼーっとして手が止まる上司に、
有能な副官は、深いため息を吐いた。
『約束』・・・・・・14
コトリ、と音がしてハッと顔を上げると、いつの間にやら目の前にあった書類は片付けられていて、
代わりに湯気の立ち上るコーヒーのカップが置いてあった。
「中尉?」
「あまり効率がよろしくないようなので、一度休憩なさったらいかがかと」
「・・・・・すまない」
万年筆を置いて、カップに口をつける上司をじっと見詰めてから、リザは口を開いた。
「何を拗ねておられるのですか?」
「・・・・・・・・拗ねる?」
「思いどうりにならなくて『もういい』と背を向ける――――子供が拗ねている時、よくする仕草です」
ズバッと切りつけてくる彼女に、今度はロイが深いため息をつく。
もちろん彼女が言っているのは、エドワードとの昨日の一件の事だろう。
「そんなんでは、ないよ」
「では、なぜ?・・・・・・嫌いになったわけではないのでしょう?」
「ああ、愛しているよ」
ロイはくるりと椅子を回すと、窓の外を見詰めた。
外は、しとしとと小雨が降り続いている。
激しく打ち付ける雨ではなく、音も無く熱を奪っていくような雨。
そんな雨は―――――今の自分の心境を映しているようだ。
少しづつ体温を奪われて、そのうち感覚も無くなって、じわりじわりと魂まで凍えていく・・・・・
降り続く雨を見ながら、そんな錯覚に陥って――――ロイは軽く頭を振る。
そして、副官の方に向き直って言葉を続けた。
「・・・・・・・・・むしろ、愛しすぎたんだろうな」
******
あの子供に心を奪われたのは、いつだったか。
どん底の中から掬い上げた子供は、次に会った時には輝く魂を取り戻していた。
逆境にも負けず、ひたむきに目的に向かって突き進む。
重いはずの枷。圧し掛かる罪。突きつけられる現実。
そのどれにも負けないで笑う、くるくると変わる表情が眩しくて。
いつの間にかどうしようもないくらい、彼に惹かれている自分に気がついた。
自覚した途端、彼が欲しくて欲しくて仕方がなくなった。
あの希少な輝きに、他の誰かが気がつく前に何とか手に入れたくて躍起になった。
だから、半ば強引なプロポーズをしてしまった。
恋愛についてはいつもスマートに進めていくのが信条だったが、
そんなものはとっくに吹き飛んでいて。
ただただ、我慢が出来なくて口に出した言葉だった。
だから、彼が頷いた時は、我ながら舞い上がっていたと思う。
・・・・・まるで、初めての恋を知った少年のように。
「だが、本当は心の何処かで感じていたんだよ・・・・・彼が理解していないんじゃないかってことは」
薄々気づいていたが、愛しさは止まらなくて。気づかない振りをした。
プロポーズしてからの一年間。
心血注いで情報を集め、提供してやった事も手伝って・・・実際に会えた日数は数えるほど。
それでも、その短い逢瀬の中でも確かめる術はあったはずなのに・・・・・・わざとそれをしなかった。
暴走しそうなほど彼を求める気持ちはあるのに、無理矢理それを捻じ伏せて。
彼の話にいつもの軽口を返し、じゃれあう程度にだけ、触れた。
今思うと、真剣に求めて――――拒絶の言葉を聞くのが怖かったのだろう。
頷いたのは、そんな意味じゃないと・・・・・そう引導を渡されるのが、恐ろしかったのだ。
「実際・・・・・蓋を開けてみれば、やっぱり彼は理解していなかったな」
「それに・・・・・・失望されたのですか?」
「いや。確かに理解はしていなかったが、脈がなかった訳でもない」
あの時、『約束したから結婚しても良い』と、そう彼は言った。
いくら同情であったり、その場の勢いであったとしても・・・・・・
『等価交換』の誤解は解けた後だ、
そこに少しでも気持ちがなければ、同性に申し込まれた結婚に頷ける者はいないだろう。
きっとあの子の中には、私に寄せる気持ちが隠れてる。
ならば、頷いてしまえば・・・・・・彼を手に入れられる。
自分のものにしてしまってから、後はゆっくりと自覚を促して陥落していけばいい。
そう、思った・・・・・・・のだが。
もう一つ―――――考えてしまった。
やっと重い荷物を降ろして、自由を手に入れた小鳥。
今度こそ彼に待っているのは、輝ける未来な筈で。
彼は自由な翼で、どこにでも飛んでいけるはずなのに・・・・・・。
枷に囚われた彼を誰よりも憂いていたはずの自分が、
自ら、自由を得た小鳥に再び枷を嵌めようととしている。
それも・・・・・小鳥を罠にかけるような、そんな方法で。
もっとも、それを承知の上で口説いてきた筈なのだが。
だが・・・・・実際自由を取り戻した彼を見たら、なんだか――――――
「なんだか、小鳥が可哀想になってきてしまってね」
逃がしてやろう・・・・・・と、思った。
ロイは、そう言って手に持ったコーヒーカップの中の、揺れる水面を見詰めた。
******
『愛しすぎた』
そうこの上司は言った。
話を聞いて、まさにその通りなのだろうと思った。
今までの彼なら、欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れてきた。
無理と思えるようなものも、そんな常識を履がして確実に手に入れる。
それだけの手腕を持った人だった。
だが、今回は。
手に入れるチャンスを棒に振ってまで、彼に自由を与えてやろうとしている。
それは、自分の進む道の困難さを十分に分かっているからだろう。
部下として側に置くわけではないが、この人の隣りに立つということは
生涯軍に関わらなければいけないという事。
この人の進む道はとても険しくて・・・・・それを支える人は相当苦労するだろう。
自分達側近はそれを覚悟の上で付き従っているが、かの思い人は忠誠を誓った兵隊ではない。
この人が表現した通り『やっと自由を勝ち取った小鳥』なのだ。
彼自身の運命に打ち勝ってやっと軽くなった背に、今度は自分の重たい運命を乗せるのが忍びなかったのだろう。
『馬鹿な人』
結局この二人は似ているのだ。
全て自分一人で背負っていこうとする所など、そっくりだ。
だが、この人は忘れている。
愛しすぎて、大事すぎて、見誤っている。
―――――彼は、そんなに弱くない。
そして、もう一つ見誤っている事。
それは自分自身の気持ち。
『失っても耐えていける』と、本気でそう思っているのだろうか?
本気でそう思っているというのなら、甘いのもいいところだ。
――――――こんなにも、深く愛してしまっているのに。
『ホント、馬鹿な人』
リザは一度軽く目を閉じてから、もう一度ロイを見詰めて。
そして、口を開いた。
「あなたが手放すというのなら、私が頂いてもよろしいでしょうか?」